西郷隆盛に学ぶ会  (例会・資料1-3)

西郷隆盛に関する年表 

社会的背景) (特筆事項


1850(嘉永 3年)(23歳)

3月、父が用達している赤山靱負が高崎崩れ(お由羅騒動)で切腹する。

父から
赤山靱負の血染め肌着を父から見せられ感憤する。

  伊藤茂右衛門陽明学を学び、無参禅師禅学を学ぶ。

  藩主・斉彬農政に関する建白書を提出する。

佐賀藩、反射炉を築造。

1851嘉永4年)24歳)

島津斉彬藩主となる。

  鹿児島に精錬所を設置。(8月)

大久保正助(利通)、有村俊斎らと「近思録」を輪読する。

1852(嘉永5年)(25歳)

伊集院兼寛の妹・結婚

  927日、 吉兵衛死去。29日、亡父吉兵衛の家督相続願いを提出。

1129満佐マサ死去。

オランダ商館長、幕府にアメリカ艦隊の来航を予告

1853(嘉永6年)(26歳)

210日、吉之介より善兵衛への改名願いを出す。

6月、 アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー浦賀に来航。通商を求める。(幕府回答延期。)

幕府、朝廷に報告。諸大名に意見を聞く。→ 朝廷の権威高揚

7月、 ロシア・プチャーチン長崎に来航。

  徳川家定13代将軍となる。(10月)

1854(安政 元年)(27歳)

  121日、(鹿児島出発) 中小姓となり、藩主斉彬に従って江戸に上る(始めて)。

36日、江戸着。

3月、ペリー再来航日米和親条約を締結。下田、函館を開港。

(後、露、英、蘭とも同条約締結。)

  4月、 庭方役に任命される。
  
  410日、樺山三円と小石川水戸藩邸に行き、初めて戸田忠太夫、藤田東湖に会い、
 藤田東湖から深い感銘をうける。(椎原宛書簡にて東湖を絶賛する。)

7月、斉彬、重病になる。

7月、8月にも藤田東湖を訪問し時事を論じる。

7月・藩主斉彬の世子・虎寿丸が急病になり、僅か1日で死去。(6歳)

、留守中に実家へ 帰り離婚する。

  12月、 ロシアと和親条約を締結。

1855(安政2年)(28歳)

吉兵衛と改名。

6月、越前藩士矢島錦助宅で水戸、越前、柳川、肥後藩士らと月例会を催し、時政を論じる。

   10月、江戸大地震(安政大地震--- 藤田東湖死亡)

  1226日、橋本左内と会い、国事を論じる。


1856(安政3年)(29歳)

  412日、初めて斉彬の御前に召し出され、密室で問答を受ける。

(その後も、5月まで3回、1時間程度)

  79日、斉彬の密書を徳川斉昭に届け、詳細を安藤帯刀に述べる。

武田耕雲斎にも初めて会い、水戸藩の事情を聴取する。

この年、斉彬の養女篤姫の輿入れ準備に奔走する。

将軍継嗣問題。(一橋慶喜擁立派vs南紀派・慶福擁立派)

8月、 アメリカ総領事ハリス下田に着任。通商条約交渉。

1857(安政4年)(30歳)

4 3日、藩主斉彬に従って江戸を出発。途中、京都、大坂で諸有志を訪問。

熊本で長岡監物を訪問。

524日、鹿児島着。小姓与に復帰。武村上之園の借家に住む。

10月、 徒目付・鳥預り・庭方兼役となり、江戸勤務を命ぜられる。

111日、江戸へ出発。熊本、福岡、小倉を経て、12日、下関の白石正一郎宅に一泊。

126日、江戸着。

   128日、橋本左内を越前邸に訪ね、将軍継嗣問題に関する斉彬の書簡を松平慶永(春嶽)に呈す。

1858(安政5年)(31歳)

    老中・堀田京都へ。朝廷、条約調印勅許せず。

3月、将軍夫人篤子の近衛忠熙宛ての書を携えて京都に向かう。

京都で月照、村岡(近衛家老女)らにより内勅降下をはかる。

320日、近衛忠熙の答書を携え京都発。

4月、井伊直弼大老に就任

517日、松平慶永の斉彬宛の書を携えて江戸を発つ。

6月、日米修好通商条約に調印。 (後、蘭、露、英、仏とも同条約締結。)

6 7日、鹿児島着。斉彬に関東の情勢を報告。

     618日、斉彬の松平慶永川路聖謨宛ての書を携えて鹿児島を出発。

77日、大坂着。

   710日、吉井友実と上洛。梁川星巌春日潜庵らに会い関東の情勢を探り、
  続いて大坂に
行き、再度、入京。

727日、大坂で斉彬の訃報に接し、大いに失望して、帰藩して殉死を考えるが、僧月照
いさめられ、斉彬の遺志を継いで国事に尽すことを決心する。

82日、京都発。水戸・尾張藩への内勅を持って江戸に行く。

87日、江戸着。

825日、江戸発。

830日、京都着。

9月、安政の大獄185859)始まる。

99日、近衛家の召しに応じて参殿し、月照の保護を頼まれる。深夜、月照を伴い京都を脱出
大坂へ向かう。(その後、西郷は単身、伏見より京都に引き返す。)

尊皇攘夷派の水戸斉昭松平慶永らの謹慎。吉田松陰橋本左内らの志士を大量捕縛。

924日、捕吏の手が迫り、月照有村俊斎とともに大坂を逃れ、海路帰藩の途につく。

将軍、継嗣決定。南紀派の勝利。

10月、徳川家茂14代将軍となる。

101日、月照受け入れ工作のため、一行に先立ち下関より単身帰藩。

106日、鹿児島着。

10月、 藩命により三助と改命。

   1115日、藩庁、月照の日向追放を決定。西郷に即日実行を命じる。日向送りの藩命を伝え夜半、
  
月照平野國臣とともに乗船。

1116日、未明、錦江湾大崎ヶ鼻沖(花倉けくら沖)で月照と共に入水
同乗していた
平野国臣らに救われ、西郷は蘇生したが月照は死去する。

1228日、藩命で菊地源吾と変名。奄美大島竜郷へ潜居を命ぜられる。

1859(安政6年)(32歳)

110日、山川を出帆し、12日、奄美大島竜郷村阿丹崎着。

美玉新行の空家を借りて自炊生活を始める。

5月、イギリス総領事オールコック着任。

   神奈川、長崎、函館を開港。露、英、仏、蘭、米に貿易を許可する。

   10月、 龍佐栄志の娘おとまがに愛加那と改名)と結婚

  重野安繹やすつぐが遠路来遊する。

10月、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎処刑

10月、シーボルト再来日。

1860(万延 1年)(33歳)

1月、勝安房ら軍艦咸臨丸でアメリカへ向う。

2月、鹿児島の留守家族へ藩主より賜金。

33日、桜田門外の変(井伊直弼、襲撃される。)

4月、 桜田門の変を知り歓喜する。

外人殺傷事件頻発。

百姓一揆・打ち壊し激発。

1861(文久 1年)(34歳)

1月、庶長子菊次郎誕生。

5月、 品川東禅寺事件(水戸の浪士の英人傷害事件)

  10月、 新家屋(11坪)落成。

  1220日、藩より召還命令を受ける。

公武合体論(和宮降嫁、10月江戸へ)

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