西郷隆盛に学ぶ会 (例会・資料−1-3) |
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西郷隆盛に関する年表 (社会的背景) (特筆事項) 1850(嘉永 3年)(23歳) 3月、父が用達している赤山靱負が高崎崩れ(お由羅騒動)で切腹する。 伊藤茂右衛門に陽明学を学び、無参禅師に禅学を学ぶ。 藩主・斉彬に農政に関する建白書を提出する。 佐賀藩、反射炉を築造。 島津斉彬、藩主となる。 鹿児島に精錬所を設置。(8月) 大久保正助(利通)、有村俊斎らと「近思録」を輪読する。 伊集院兼寛の妹・俊と結婚。 11月29日 、母満佐マサ死去。 オランダ商館長、幕府にアメリカ艦隊の来航を予告。 2月10日、吉之介より善兵衛への改名願いを出す。 6月、 アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー浦賀に来航。通商を求める。(幕府回答延期。) 幕府、朝廷に報告。諸大名に意見を聞く。→ 朝廷の権威高揚。 7月、 ロシア・プチャーチン長崎に来航。 3月6日、江戸着。 3月、ペリー再来航。日米和親条約を締結。下田、函館を開港。 (後、露、英、蘭とも同条約締結。) 7月、斉彬、重病になる。 7月、8月にも藤田東湖を訪問し時事を論じる。 12月、 ロシアと和親条約を締結。 吉兵衛と改名。 6月、越前藩士矢島錦助宅で水戸、越前、柳川、肥後藩士らと月例会を催し、時政を論じる。 10月、江戸大地震(安政大地震--- 藤田東湖死亡) 1856(安政3年)(29歳) 4月12日、初めて斉彬の御前に召し出され、密室で問答を受ける。 (その後も、5月まで3回、1時間程度) 7月9日、斉彬の密書を徳川斉昭に届け、詳細を安藤帯刀に述べる。 武田耕雲斎にも初めて会い、水戸藩の事情を聴取する。 この年、斉彬の養女篤姫の輿入れ準備に奔走する。 将軍継嗣問題。(一橋慶喜擁立派vs南紀派・慶福擁立派) 8月、 アメリカ総領事ハリス、下田に着任。通商条約交渉。 4月 3日、藩主斉彬に従って江戸を出発。途中、京都、大坂で諸有志を訪問。 熊本で長岡監物を訪問。 5月24日、鹿児島着。小姓与に復帰。武村上之園の借家に住む。 10月、 徒目付・鳥預り・庭方兼役となり、江戸勤務を命ぜられる。 11月1日、江戸へ出発。熊本、福岡、小倉を経て、12日、下関の白石正一郎宅に一泊。 12月6日、江戸着。 ※
老中・堀田京都へ。朝廷、条約調印勅許せず。 3月、将軍夫人篤子の近衛忠熙宛ての書を携えて京都に向かう。 京都で月照、村岡(近衛家老女)らにより内勅降下をはかる。 3月20日、近衛忠熙の答書を携え京都発。 4月、井伊直弼、大老に就任。 5月17日、松平慶永の斉彬宛の書を携えて江戸を発つ。 6月、日米修好通商条約に調印。 (後、蘭、露、英、仏とも同条約締結。) 6月 7日、鹿児島着。斉彬に関東の情勢を報告。 6月18日、斉彬の松平慶永、川路聖謨宛ての書を携えて鹿児島を出発。 7月7日、大坂着。 7月27日、大坂で斉彬の訃報に接し、大いに失望して、帰藩して殉死を考えるが、僧月照に 8月2日、京都発。水戸・尾張藩への内勅を持って江戸に行く。 8月7日、江戸着。 8月25日、江戸発。 8月30日、京都着。 9月、安政の大獄(1858〜59)始まる。 9月9日、近衛家の召しに応じて参殿し、月照の保護を頼まれる。深夜、月照を伴い京都を脱出 尊皇攘夷派の水戸斉昭、松平慶永らの謹慎。吉田松陰、橋本左内らの志士を大量捕縛。 9月24日、捕吏の手が迫り、月照、有村俊斎とともに大坂を逃れ、海路帰藩の途につく。 ※ 将軍、継嗣決定。南紀派の勝利。 10月、徳川家茂、第14代将軍となる。 10月1日、月照受け入れ工作のため、一行に先立ち下関より単身帰藩。 10月6日、鹿児島着。 10月、 藩命により三助と改命。 11月16日、未明、錦江湾大崎ヶ鼻沖(花倉けくら沖)で月照と共に入水。 12月28日、藩命で菊地源吾と変名。奄美大島竜郷へ潜居を命ぜられる。 1月10日、山川を出帆し、12日、奄美大島竜郷村阿丹崎着。 美玉新行の空家を借りて自炊生活を始める。 5月、イギリス総領事オールコック着任。 神奈川、長崎、函館を開港。露、英、仏、蘭、米に貿易を許可する。 10月、 龍佐栄志の娘おとまがに(愛加那と改名)と結婚。 重野安繹やすつぐが遠路来遊する。 10月、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎処刑。 10月、シーボルト再来日。 1月、勝安房ら軍艦咸臨丸でアメリカへ向う。 2月、鹿児島の留守家族へ藩主より賜金。 3月3日、桜田門外の変(井伊直弼、襲撃される。) 4月、 桜田門の変を知り歓喜する。 ※ 外人殺傷事件頻発。 ※ 百姓一揆・打ち壊し激発。 1月、庶長子菊次郎誕生。 5月、 品川東禅寺事件(水戸の浪士の英人傷害事件) 10月、 新家屋(11坪)落成。 12月20日、藩より召還命令を受ける。 公武合体論(和宮降嫁、10月江戸へ) |
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