西郷隆盛に学ぶ会  (例会・資料1-4)

西郷隆盛に関する年表 

社会的背景) (特筆事項

1862(文久2年)(35歳)

114日、大島三右衛門と改名して竜郷村阿丹崎を出帆するが七島灘で逆風にあい帰港。

1月、坂下門外の変(安藤正信の襲撃事件)

129日、再出帆。

211日、枕崎着。

212日、鹿児島着。

215日、徒目付・鳥預り、庭方兼役に復職。久光の上洛・参府に反対する。

    大原重徳の東下。

    島津久光、幕政改革を要求。 (参勤交代の緩和、将軍後見職・京都守護職の設置等)

2月、 和宮と徳川家茂の婚儀。

  313日、島津久光から先発して肥後の形勢を視察して、下関で待機せよとの命を受け、村田新八
  共に発つ。

322日、下関着。白石正二郎宅で平野国臣らから京大坂の情勢を聞き、夜に村田新八、森山新蔵を
待機命令に背き下関出帆

327日大坂着。

329日伏見に行く。

46日、伏見で大久保と会う。

  48日、久光は激怒して、西郷らの捕縛を命ず。

  49日、西郷は兵庫に行き、久光に拝謁を請う。大久保、西郷を須磨の海岸に誘い、久光の怒りを
  伝える。

  410日、大久保らに送られて海路大坂着。

411日、西郷・村田・森山らは捕らえられ、天神丸にて鹿児島に護送される。(山川港で待命。)

  4月、 寺田屋事件(京都で薩摩藩士、過激派を斬る。)

66日、西郷の徳之島、村田の喜界島配流の藩命が下る。

614日、山川湊出帆。口永良部島・

618日屋久島一湊いっそう着・25日頃まで滞船。

630日奄美大島西古見にしこみ着。

75日、徳之島着。岡前おかぜんに住む。

75日女子菊草誕生。

  714日、沖永良部島への遠島命令でる。

7月、一橋慶喜将軍後見職となる。

  826日、愛加那菊次郎菊草つれて面会に来る。同日沖永良部島への遠島処分を受ける。
  西郷家の禄高14石・家財没収。弟吉次郎従道共に謹慎処分。

827大島吉之助と改名し、岡前発。井之川で舟牢に入って汐待ち。

  8月、 生麦事件(薩摩藩士の英人殺傷事件)

814日、徳之島井之川出帆。同日沖永良部島伊延いえ着。

816日、和泊で入牢する。

9月、 朝議、攘夷令に決定。

10月初め、座敷牢完成。

11月、 新家屋の「囲い」に移る

1863(文久3年)(36歳)

  510日、 下関事件(長州藩攘夷決行、米、英、蘭の艦船を砲撃)

 ※ 島の子供たちのために囲いの中で塾を開く。流人学者川口雪篷が来訪、
 以後詩作と書の指導を受ける。操家の蔵書で終日、学問をする。

7月、薩英戦争が起こる。(英艦隊、生麦事件の責任を問い鹿児島で交戦)

8月、大和五条の変(天誅組中山忠光卿ら挙兵・八月十八日の政変

8月、長州藩の宮門警備罷免。→七卿の都落ち

   9月、間切横目まぎりよこめ 土持政照の尽力で出撃のための船を準備する。
  また、薩英戦争
の情報を徳之島や沖縄に求める。

10月、生野の変(平野國臣らの挙兵)

1864(元治 1年)(37歳)

222日、吉井友実、西郷従道西郷召還の藩命を受け、藩の汽船・胡蝶丸で西郷の召還の為、
沖永良部島着。同日出帆。

222日、沖永良部島和泊発。

223日、奄美大島竜郷着。

226日、竜郷出帆。喜界島に寄り、村田新八をつれ28日鹿児島着。足が立たず駕籠で上之園の
自宅に帰る。

229日、福昌寺の斉彬の墓に参る。

3月、 天狗党の乱(水戸藩士、筑波山に挙兵)

34日、村田新八とともに鹿児島出帆、14日京都着。

418日、帰藩する久光、大久保より後事を託され、藩の軍賦役になる。

4月、一代新番・小納戸頭取となる。

6月、池田屋事件(新撰組、尊攘派を襲撃)

64日、島津珍彦の上京を迎えるため、大坂に下る。

65日、楠公社の敷地選定のため兵庫に行く途中、伊丹に宿泊中に池田屋の変を知り直ちに
京都に帰還。

614日、桐野利秋を長州に派遣し、内情を探らせる。

621日、長州兵の大挙上洛に対し、薩摩は中立を守り、皇居守衛に専念することを国元に
伝える。

627日、長州兵の目的が、朝廷へ政治路線の変革を求めることが明確になり、急を国元に報じ、
援兵を請う。


719日、禁門(蛤御門)の変起こる。参謀として薩摩兵を指揮して、烏丸通より長州兵を迎撃、
足を負傷する。


728日、海江田信義を福井へ派遣し、松平慶永の上洛を促す。

7月、藩命により西郷姓に複名。御側役・代々小番に昇格。

8月、 四国連合艦隊下関を砲撃

8月、 第一次長州征伐811月)。→ 長州藩恭順。

828日、久光、忠義父子から感状・陣羽織・刀を拝領。

915日、福井藩の堤正誼、青山貞とともに大坂に下り、勝海舟と会見。異国船対策などの勝
意見に感服する。


108日、征長強硬論を転換し、長州処分について緩和の意図をもつにいたる。岩下方平、急使と
して上京し、先の将軍上洛の件での西郷の独断行動をとがめる。帰国命令に西郷は帰国延
期を願う。

1015日、征長軍出発を迎え軍議に参加するため吉井とともに大坂に下る。

1024日、征長軍総督徳川慶勝に謁し、意見を上申、脇差を与えられ、長州の処分を一任される。

1026日、吉井友実、税所篤と共に大坂出帆。

112日、広島着。

  113日、岩国着。吉川監物と会見し、長州藩三家老の処分案をはかる。

  116日、広島に帰着。徳川慶勝に会い経過報告をする。国泰寺での総督による吉川監物訊問
  立ち会う。         

1116日、征討進軍を中止し、長州処分案を総督に提出する。

1120日、広島発。

1123日、小倉着。強硬論の越前藩などを説得。

1211日、吉井、税所とともに下関に渡り、三条実美ら五卿の附士・土方久元中岡慎太郎
長州藩諸隊長と会見、征長軍の解兵後、五卿を福岡に移す妥協案をだす。

1216日、高杉晋作、遊撃隊を率いて決起する。

1227日、征長軍の解兵を提案する。総督、即日解兵を命じる。(小倉、岩国を経て広島着。)

1228日、小倉に向かい、征長軍副総督松平茂昭と薩摩藩先鋒隊に解兵の事情を伝える。

1865(慶応 1年)38歳)

14日、小倉を発ち、帰国の途につく。

115日。鹿児島に着き、藩主父子に謁し、報告。

128日、岩山八郎太直温なおあつの二女イトと結婚

22日、鹿児島発。

2月、太宰府で五卿と会い、五卿の進退につき、警衛の任に当たる五藩の代表者会議を開く。

福岡で藩主黒田長溥に五卿の処遇を頼む。

35日、博多発。

311日、上洛。

3月、長州藩、武備恭順を藩論とする。

422日、坂本龍馬、小松帯刀を同行して京都発。

425日、藩船・胡蝶丸で大坂発。

4月、第二次長州征伐

51日、鹿児島着。

大番頭・一身家老となる。役料180石。

5月、大久保利通と計り、長州再征には出兵拒否の藩論をまとめる。

56日、中岡慎太郎が来訪。西郷に薩長協和を説き、下関で木戸孝允と会うことを勧める。

  515日、中岡慎太郎、岩下方平と共に鹿児島発。

  518日、豊後佐賀関で、大久保からの至急上洛を促す報に接し、下関により木戸孝允と会う
  予定を変更して直行。 


  523日、上洛。

  611日、坂本竜馬らと京都で会見。薩摩藩名義で武器購入を図る長州藩の要請を受諾。

9月、長州再征の勅許下る。

9月中旬、四国連合艦隊の摂海入りの動きを知り、吉井とともに大坂に下る。

923日、京都帰着。

924日、坂本龍馬を同行して大坂へ下る。

926日、胡蝶丸で大坂出帆。

104日、帰国し、京都の情勢を報告して、久光の上洛を促す。

藩命により大島姓より西郷姓に復名。御側役に任ぜられ役料90石、代々小番に昇格。

1014日、久光は自らの上洛をやめ、代わりに小松帯刀、西郷が藩兵を率いて出発。

1025日、京都着。

10月、黒田清隆・坂本龍馬を長州に遣わし、薩長連合を計る。

10月、安政の条約、勅許さる。

1866慶応2年)(39歳)

18日、木戸孝允の上洛を知り村田新八と伏見まで行きで迎える。

19日、木戸とともに京都に戻り、二本松の藩邸に入る。

薩長同盟の話停滞する。

120日、坂本竜馬上洛。

121日、小松邸で小松も同席し、坂本竜馬の立会いのもとに薩長同盟成立

229日、桂久武らと京都出発。

34日、小松、吉井らとともに、坂本竜馬夫妻を伴い、藩船三邦丸で大坂を出帆。

311日、鹿児島着。

4月、藩政改革と陸海軍拡張を進言。

51日、小松、桂久武らと藩政改革にあたる。

  618日、鹿児島湊に入港したイギリス軍艦プリンセス・ロイヤル号を藩代表として訪ね、
 
パークス駐日公使と会見。寺島宗則ら陪席。

  79日、朝廷に長州再征反対の建白をする。幕府に対しては藩主名で出兵を拒否する。

712日、嫡子寅太郎誕生。

9月、病床につく。

9月、大目付・陸軍掛を拝命。役料200石。家老同様名前でもって家老座への出席を命じられる。
このとき、大目付返上を願い翌日、返上を許される。

1015日、小松と共に汽船三邦丸で鹿児島出帆。

1026日、上洛。翌日、久光上洛猶予の願書を出す。

129日、藩の賠償金支払いを砂糖で代償する談判の為大坂滞在中、イギリ公使の通訳官
アーネスト・サトウ
と会う。

12月、徳川慶喜15代将軍となる。

1225日、孝明天皇没。

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