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西郷隆盛肖像画 |
西郷隆盛銅像
(上野公園) |
西郷隆盛肖像画 |
28代藩主島津斉彬 |
明治天皇 |
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西郷隆盛肖像画 |
西郷隆盛像 |
牢屋 |
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西郷さんの描いた
鎮西八郎為朝
(明治百年記念館蔵) |
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西郷さん直筆 |
西郷さん直筆(漢詩) |
水戸藩9代藩主
徳川斉昭 |
藤田東湖 |
藤田東湖書 |
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西郷従道 |
大久保利通 |
坂本竜馬 |
木戸孝允 |
勝海舟 |
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集合写真(1865年)
慶応元年2月 |
フルベッキ博士と西郷 |
庄内藩主 酒井忠篤 |
庄内藩家老 菅 実秀 |
菅 実秀への書
(西郷直筆) |
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上野公園 西郷隆盛銅像の由来 |
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西郷隆盛を称える辞 |
上野公園西郷隆盛
銅像の由来@ |
上野公園西郷隆盛
銅像の由来A |
上野公園西郷隆盛
銅像の由来B |
西郷隆盛漢詩集 |
西郷隆盛銅像除幕式 朝日新聞記事 明治31年12月19日(月) |
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東京朝日新聞@ |
東京朝日新聞A |
東京朝日新聞B |
東京朝日新聞C |
記事拡大 |
「 西郷さんの絵物語」 |
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@南洲翁、吉之助と稱
せる頃の少時、父吉兵
衛母まさ子は深く訓育
に意を注ぎ翁も亦数多
の弟妹と共に父母の心
を體して学事に励んだ。
十八歳にして郡方書役
になったが十分に役目
を果たして行った。 |
A南洲翁は二十五歳頃
より有名な無参禅師に
就いて禅道の修業を積
んだ。
加治屋町の家から毎朝
夜の明くるを待って禅師
を訪ひ、石上に結跏趺坐
した。今その記念の石を
存するが、後年の胆略は
この間に獲た。
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B 南洲翁二十八歳で
斉彬公に随って江戸に
上るや、庭方役を拝命。
これは翁の人物を見込ん
で命じたので、これより翁
は自由に公に謁見するこ
とが出来、活動の舞台に
上った。かくて英主賢臣
は日に親んだ。 |
C 南洲翁は藤田東湖の
高名を聞いて、秘かに
景仰して已まなかったが 、
愈々江戸に上って有村
俊斎樺山三圓等の郷友
と共に東湖を訪うた。
東湖は一見して後事を託
するは此の漢子にありと
喜んだと云う。
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D 薩摩潟の入水は南洲
翁半生の一大悲劇であっ
た。その初めて月照上人
と識るや、この人と與に死
せんと期したといふ。
上人の忠魂は翁の義膽と
相通じて、遂に海に投じた
が、天は未だ翁を殺さなか
った。 |
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E 南洲翁は大島に三
年間、徳之島より沖永
良部島にかけて約二年
前後約五箇年間の歳月
を孤島の風涛裡に送っ
たが、翁は修養をこの
間に積み、又よく島の子
弟の訓育に意を注いだ
ので島民今日尚翁を慕
うてゐる。 |
F 明治元年戊辰の歳一
月、伏見鳥羽の戦は徳
川幕府の運命を決せる
ものであった。慶喜は
大兵に擁せられて京都
に向かったが、薩長の
兵これを途に拒守し、
南洲翁は出でゝ戦場を
巡視して士氣を鼓舞し
た。 |
G 江戸城の明渡しは
南洲翁と勝海舟との一
大腹(芸)であった。
いかに時運(とは)いへ、
此の両雄の器度膽略な
くんば、あれ迄に手際
よくこの難局は終結しな
かったであらう。翁は
悠揚としてこの大任を
果した。 |
H 征韓論は殆ど南洲翁の
全生命を打ち込んだ大場
面であった。岩倉大久保
木戸等の歸朝に會して、
一旦容れられた翁の意は
沮止さるゝに至り、官を辞
して故山に歸るや擧朝震
駭、一世の耳目は翁の一
身に集った。 |
I 南洲翁鹿児島に歸る
や悠々山野に獵し、田圃
に耕し、傍ら鹿児島を距
る數理の地にある吉野村
の開墾に従事した。翁は
自ら駄馬を驅ってこゝに
出入し、鍬を手にして立働
きながらよく年子弟を導
いた。 |
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幕末の日本地図 |
琉仲為あての手紙
文久3年6月2日
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薩英戦争(イギリス海軍) |
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